カオスの街、イスタンブールを後にして九月二十日、花の都、パリに到着しました。ここでたずねるべきは、ギメ美術館です。フランスにおける東洋美術の最大のコレクションを誇ります。ここの日本陶器の担当はイレーヌ、バイユー女史です。ここには、当然明治以前から明治時代にかけての『サツマ』(と称するもの)が数多く収蔵されています。
さて、今更ながらですが、この『サツマ』と称されているものについての概略をお話しておきます。
日本のやきものには、皆様御存知の陶器と磁器があります。磁器は日本で最も古い歴史をもつのが、有田焼であり、その始まりは薩摩焼と同じ一五九八年の朝鮮国より連行された技術者がそのはじまりです。その原料は、陶石と呼ばれる硬い石の性質を色濃く残した土で、その土石を粉砕して、水と混ぜ、成形したものが磁器です。焼き上がった製品は、石の性質を保ち、弾くと清んだ音がします。一方、陶器はその源流を一万二千年前の縄文時代までさかのぼりますが、高火度灰釉陶器としては尾張猿投窯にその端を発します。近世において、磁器は高級な食器として、陶器は茶道の発展とともに、互いにその技術的裾野を拡げてきましたが、東インド会社の貿易により、磁器は江戸時代、すでにヨーロッパに伝えられていました。これは、明から清へと中国の政権が移行する際(1650年〜1700年)、中国製の磁器が出廻らなくなる時期があり、その間、代替品として、伊万里港発の有田(肥前)磁器が一挙に世に出たのです。ヨーロッパでは大変な人気を呼び、現代でも古伊万里様式、柿右衛門様式などが世に知られています。
やがて国内では、瀬戸、九谷など有田以外でも磁器が生産される様になっていきます。その間、陶器は、秘かにそして静かに、日本の国内だけで、育くまれていきました。
1867年(慶応3年)パリ万博において、白薩摩がついに初めて、その姿を世界に現し、ヨーロッパの多くの人々は磁器にはないその温もりと、卵のカラの様な、ミルクを流した様な表情の陶器に賞賛の声をあげたのです。やがて、その評価を確実にしたのが、1873年(明治6年)のウィーン万博でした。
この万博は日本が初めて国家として参加したものであります。その際、日本陶器を代表して出品されたのが十二代沈壽官作の6フィート(約180cm)の大型の一対の花瓶でした。五色の絵の具で彩られたあまりの素晴らしさに驚嘆の声が上りました。それ以降、日本陶器の代名詞として『サツマ』と呼び習わすようになったのです。
ヨーロッパにおける「サツマ」人気は、凄まじく、その人気に目をつけた日本政府が重要な輸出品目の一つとして、「サツマ」つまり色絵日本陶器を加えたのです。骨董品以外に取り立てて売るものがなかった日本政府にとって、「サツマ」の登場は砂漠に降る雨のようだったのでしょう。
ただし、ヒット商品が出ると、必ずそれを追う者がでます。薩摩にとって、その追う者とは、薩摩より、はるかに歴史と技術と職人の総量で勝る京都三条神宮道の粟田(あわた)焼と石川県の九谷(くたに)焼でした。彼らは、この薩摩の大ヒット以前から、横浜・神戸港からの陶器輸出に種々の試みをしてはいましたが、薩摩の万博での成功を確認するや、自らの突き進むべき方向を確たるものにしたと思われます。大量の製品が、神戸・横浜に送られはじめます。
あるいは、神戸・横浜に工場を建設し、多くの職人を送り込みあるいは、雇い入れての生産が始まったのです。当初、それらは、薩摩より、はるかに微細であり、外国人の好みをより的確に反映したものであったのです。
さらに、梱包も丁寧でした。地の利と情報量や技術力で圧倒的に勝る彼らに伍するために本薩摩(鹿児島産)も自らの持つ精巧な成形力とりわけ、人形の制作や錦手の上絵技法で対抗し、横浜での絵工場の運営も開始しますが、薩摩の特徴である盛絵具(盛金)の技法や細工物の仕事を簡便且つ乱雑に誇張した大量の粗悪品までもが輸出され始めるにおよび、ついに本薩摩はその表舞台からの撤退を余儀なくされました。当時の十二代沈壽官の知事宛の書簡の中に『京都より画工を招き、失業中の士族の子弟に職業訓練を施し、鹿児島港より直接ヨーロッパへ輸出を試みるべきである』と進言しています。
さらに、京都より画工を招く費用が不足なら自分の資産を提供しても良いとまで言っています。指宿や霧島という遠地より馬や船で材料を集め、その中から僅かの使用に耐えうる原料を抽出し、更にこれを多くの工程により製品に仕立て上げる。
しかも、窯から出してみなければ何一つわからない世界である。十二代にとって、薩摩に依拠して物を造ることは、自己の存在そのものであるとはいえ、維新の大事業を達成した筈の薩摩、鹿児島がこれほど時代の流れに疎くなるとは思ってもみなかったかもしれません。いずれにせよ、これらの流れの中で、無数の日本陶器達が「サツマ」を名乗りながら神戸・横浜港より船出していったのです。結果、良悪とりまぜて混存しているのです。何もそれはパリに限った事ではありません。前号のイスタンブールに至っては、そればかりでしたから。
ただ、このギメ美術館は、もう一度、ゆっくりたずねてみたい所です。あれから、ずいぶん私の研究も進んでいますから。(笑)
さて、次に、パリ市立美術館のセルヌスキー美術館です。なんとここには、薩摩土着の黒モンが収まっておりました。旅先で古い田舎の友達に会ったようで、なんとも言えない気持ちになりました。パリの街角と加治木龍門司焼鮫肌の一輪差や宋胡録の丁字風呂などのマッチングは実に楽しいものです。焼き物ファンは是非一度訪ねて欲しい場所です。
パリを去り、最後の訪問地ウィーンに向かいました。ここにはオーストリア応用美術館(MAK)があります。appliedという英語を日本では「応用」と訳すのですが、つまりは工芸美術館という意味です。なんとここで「玉山」銘の一対の花瓶がありました。明らかに明治初年の苗代川陶器会社(十二代沈壽官工場長)の作品であり、ウィーン博に出品したものの一部ではないかと思われます。なお、シーボルト親子が持ち帰った日本陶器の中に薩摩焼が多数含まれており、それらも展示してあります。島津重濠との関係でしょうか。この美術館の日本陶器の担当はヨハンス・ビネガー氏です。かなり大量のしかも上質のサツマが展示されており、ギメ同様、もう一度訪れてみたい所です。
以上、かけ足での最後のまとめになりましたが、これ以外にもパリの蚤の市クリニアンクールの中にある「サツマ」やロンドンのノッティングヒルに並ぶ骨董街の「サツマ」など、まだまだ見どころはたくさんあります。更に、インドやペルシャにも「サツマ」は輸出されています。それから忘れてはならないのが、オーストラリアです。シドニーやメルボルンの美術館にも十二代沈壽官はじめ明治の陶工達の作品が収められているのです。
この明治サツマの研究、調査にあたり実感したことがあります。それは、それらの仕事が日本を代表する仕事として未だ認知されていない事であります。京都に行きますと、仁清、乾山、木米、道八等の焼の陶工の名は有名であっても、錦光山宗兵衛や伊東陶山の名を知る者は少なく京(きょう)焼(やき)という言葉自体が清水焼(きよみずやき)にかわられつつあります。
九谷でも、古九谷の青手や再興九谷の吉田屋、宮本屋の八郎手は有名でも、明治に入っての久谷陶器会社製の作品や清水美山の華尽くしの仕事はあまり有名でありません。当然近世の仕事ですから、評価が落ち着いていない事は承知しています。ただ、十二代の時代の仕事を知る事で、近代薩摩の歴史を知り、それと自らの糧にしたいとの願いは消えませんが、不思議な心持ちになりました。
明治、とりわけ、幕末から明治の中期までは、日本という国が、外国との慣れぬ揉み合いの中で、その持てる能力を全開にして必死に態勢を整えようと模索した時代です。一度にあまりにも多くの事象が発生したが故に、若さと、古さと、無知故の滑稽さも混じり合い、実につかみどころのない時期であります。真の日本美術を愛好する人々には、できれば目をおおいたくなる部分もあるでしょうし、私自身もそう思った事はありました。ただし、私にとっての大原則である所の『全ては人の仕業であり、物はその時代の写し絵である』とすれば、その時代の工芸を否定、あるいは目を背けると云うことは、その時代に目を背けることになるのです。その時代を生きた人々の不安と、高揚感がない交ぜとなった、ある種、最も生臭く、活力に満ち、そして、初々しい時代を見据える事は、その後の明治後期、大正、昭和へと続く今の私たちに多くのものと教えてくれるのです。 (完)