去る2月11日、『光風の茶会』の後、その足で成田へと発った。
裏千家坐忘斎御家元とパリで合流するためである。セーブルに於いての『薩摩焼伝統美展』のお話しを御家元にお伝えし、お力添えをお願い申し上げたのが丁度二年前の事であった。「わしもパリに行ったる。沈壽官のためや」とおっしゃって頂いたのだが、その事を覚えておいてくれた御家元は律儀に私との約束を果たして頂いたのである。多忙の上に超の字が付くほどお忙しい御家元を一週間も日本から離してしまった私は重圧感と申し訳なさでいっぱいであった。
『トラベルはトラブルである』は私のこれまでの経験則であるが、予想通り様々なトラブルが私達一行を襲った。日仏子供交流茶会では御家元を「おっちゃん!お茶が足りひんで」と叫ぶ関西系のチビっ子やお抹茶を一口飲むやいなや苦虫を噛み潰した様な表情で固まるフランスの子供、次々に紙切れに御家元のサインを求めておきながら「これ何て読むの?」。それらに対して御家元は内心凍りつきそうな私を後目に実に、にこやかに対応して居られた。また、セーブル美術館での特別講演会の最中、突如響き渡った非常ベルは一向に鳴り止まず講演は仕方なく中断された。とにかく何があっても動じず淡々と受け止めて行かれるお姿はさすがに大徳寺派の禅の修業を幼少より叩き込まれておられるだけあると頭が下がる思いであった。
そんな中で日仏子供交流茶会での御家元の御言葉が私の目を開かせた。
『お湯を沸かすのに炭の火を用います。時間は掛かりますが、お水の本来持っている美味しさを逃がしません。優しく労わる様にして良いお湯が出来るのです』。私達は2010年10月4日よりパリ、エトワールに於いて2ヶ月間の予定で『沈家歴代展』を開催する事が決定している。実はその事から来るプレッシャーがこの半年間私の心を苛んできた。パリの重厚感のある町並み、日本人の持つ保存力と中国人が持つ創造力を兼ね備えた社会は芸術工芸の分野に於いても超絶的とも言える技術で秀逸な作品を数限りなく残している。まさに国そのものが美術館と言っても差し支えはない。その彼等に自分たちの一体何を見せればよいのか・・・。何をしても歯が立たないのではないか。そればかりを考えて来た。
しかし、御家元の一言がその悩みを氷解させたのである。『水』という物言わぬ存在に対してすら労わりの心を持ち、その持てる魅力を引き出そうとする。美味しいお湯を作るためではなく、その心映えがお湯を美味しくするのである。考えてみれば我々日本人は日常の生活に於いても輪廻を語り、自らの肉体を仮の宿と捉えている。その様な仏教の持つ無常観の中にあっては小さな虫や野の花までもが命という存在で捉られ、茶道に至っては水や土といった物質にまで命を与えようとするのである。
ここに東洋と西洋との大きな差異がある。西洋に於いて人間は全ての命の頂点に存在するものであり、その人間が支配する地上の現世はまさに人間中心社会である。その人間に唯一裁きを与えられる存在が天上の神なのである。
そうなると、幕末や明治初期の日本の工芸品が西洋で評価された理由をここに見出せないだろうか。日常の身の回りにある小さな命、例えば昆虫や野の草、そして汗して働く人、それらを主題として作られる仕事は決して豪華ではないが、躍動感に溢れた命の輝きを感じさせてくれる。これこそが西洋にはない概念ではなかったのか。手仕事の丹精さと主題の持つ仏教の無常観はキリスト教社会に生きるヨーロッパの人々に東洋のエキゾチズムを抱かしめ、やがてそれはジャポニズムと呼ばれアールヌーボー(18世紀の新芸術運動・産業と芸術の垣根を無くす運動)へと昇華して行くのである。
西洋と東洋の彼我の人生観が結果的に補完しあうものであるならば、私たちの進むべき道はよりオリジナルであるべきである。即ちよりローカルでありかつ、ローテクであるべきであろう。
我々は、より鹿児島的でなければならず、幕末明治とは比較にならぬほど進化した機器を備えながらも、幕末明治に遜色のない手間隙を惜しまぬハンドクラフトの世界を意識付けなければならないのである。その上で仕事の中に現代の世相に対してメッセージを持たすべきである。
それが現代の我々に求められている事であり、その事を目指すことがより国際的なポジションへと進む王道であろう。無国籍料理なるものを与え続けられていると、その地で磨き上げられた技術と感性の集積である本格的な御当地メニューを欲しくなるものである。その時に、技術者が絶滅してしまうという状態は何としてでも防がなければならない。これもまた、現代の我々に課せられた大切な使命である。