平成十九年秋から二十年二月末まで、セーブル美術館で「薩摩焼―日本趣味と異国情緒展」が開催され、更に今年から堺市博物館(九月九日〜十一月九日)を皮切りに、鹿児島県歴史資料センター黎明館(十二月十六日〜平成二十一年一月二十五日)、国立江戸東京博物館(平成二十一年二月十四日〜三月二十二日)で『薩摩焼―400年の伝統とパリを魅了した美―』が巡回される事となった。
この度、『陶説』よりこの展示会について、現在薩摩焼製造に関わっている者としての立場から考える機会を頂いた。そしてその作業を行う事は今の私にとって大変意義深い事である事に気付かされた。
薩摩焼は他の西国の陶産地と同じく、その起源を豊臣秀吉の文禄・慶長の役へと遡る。
朝鮮渡来の製陶技術は日本各地の未知の世界と出会い、やがて「国焼」へとその姿を変えた。薩摩に於いては茶陶や藩主御用の白焼、民衆の生活用具としての黒陶器等である。これを『第一期の適応』と呼びたい。そして、これらの国焼は厳格な封建制度の垣根の中でその土地に産する原材料のみを用い、藩主・領民の美意識の支援を受け静かに独自の進化を遂げた。
幕末の動乱期はその封建制の垣根を破壊した。
薩摩の原材料を用い、薩摩の美意識で造られてきた「国焼」は、今度は藩外の世界と出会う事になる。藩外の原料を用いた薩摩製の「磁器」や「錦手薩摩」の誕生である。蓄積され熟成された第一期のエネルギーは越境の材料を得て、新たな展開を見せる。これを『第二期の適応』と位置づけたい。
やがて、瞬く間に明治維新の到来を迎える。
『明治維新』とは欧米列強からの併呑を逃れんが為、自らを欧米化するという一大政治決断である。そしてそれは同時に従来の日本と決別し、西欧型の均一な社会を急遽建設する事であった。薩摩焼は第二期としての充分な熟成を待たぬまま、急ぎ、欧米という未知の世界へと突入する事になる。
一八六七年パリ万博、一八七三年ウィーン博での評価は「薩摩焼」を「SATSUMA」という『第三期への適応』へと変えた。
この評価自体は第二期への賞賛であったであろう。しかし、それは混乱への序曲であった。住時の技術者達がかつて経験した事のない激しい市場競争原理の荒波に投げ込まれたのである。
明治十八年の陶器集談会で語られている高知県の例を挙げると、『一時土佐焼ト称セラレ、一国内ノ需求ヲ充足シタリシガ、維新ノ後民間商売人ノ手ニ帰セシヨリ、職工賃及ヒ薬石等ノ割引其他ニテ甚タ困難シテアリキ。其所以ハ薬石又ハ柞灰ノモノハ他ニ之ヲ営業スルモノアリテ皆専業ナラサレハ、営業上不如竟ナル時ハ忽チ転業スルコト容易ナレ。我々如キ轆轤細工ヲ営メルモノハ又他業ヲ心得サルヲ以テ己ムヲ得ス陶車ニ従事シタリシモ、前ニ百個ニテ金壹圓ヲ得タルニ後ニハ不引合ヲ生シ、其他時勢ノ変動等ニテ甚シキ困難ヲ蒙リ、粗製ノ弊を生シヌ。舊藩ノ時代ト違ヒ商売人ノ手ナレハ假令良製ナルモ別ニ賞スルコト無ク、少シク粗ナルモ意トセサルノ有様ナルシテ以テ簡略ノ製ニ流レ、遂ニ今日ハ絶滅シテ僅ニ舊跡ヲ存スルノミ』
同様の悲鳴は全国から寄せられている。
結果として売れる商品の贋作が常習化し、商取引も混乱をきたす。
我が家の十二代の記録には『諸器ノ原料は上ニシテ其質堅ク、亦環入アルヲ以テ美トス。是ニ純金泥ヲ以テ画彩ナシ、若シ是レニ画彩スルニ於イテハ純粋ノ正金泥ヲ以テ厚ク盛ラセ、又薩摩絵具ハ一種ノ者アリ、是レニ画彩スルニハ素地ヲ能ク見セ、絵ハ極クマバラニ画彩シアルヲ薩摩ノ古有ト云フ。近年ハ諸々ニ於テ薩摩焼ノ模造品沢山アリ、是レハ全ク全盛タリ、下ニ絵具ヲ以テ下書キニシ、上ニ金箔ヲ塗リ附ケタル者ニテ、年ヲ経ルニ随而金色悪クナリ』云々と嘆いている。
又、京都国立博物館で開催された京焼の図録には京都三条粟田口で生産されていた京薩摩と呼ばれる色絵陶器が横浜、神戸から大輸出時代を迎えた頃のエドワード・S・モースのコメントが掲載されている。
「彼等の国内用品の装飾が控え目であるのと反対にこれは又胸が悪くなる程ゴテゴテした装飾を書きなぐっている。外国の代理人から十万組の茶?と皿の注文があった。ある代理人が私に話した所によると『出来るだけ沢山の赤と金を使え』というのが注文なのである。―(中略)― 製品―それは米国と欧州へと輸出されるーの慌しさと粗雑さとは日本人をして、彼等の顧客が実に野蛮な趣味を持つ民族である事を確信させる」
当時の鹿児島県の白焼製陶所は僅かに鹿児島市内の田之浦製陶所と十二代沈壽官の主宰する玉光山製陶所、それ以外は三軒の白焼の日用品を造る工房のみであった。これによりほとんどの「SATSUMA」が鹿児島以外の京都、横浜、東京等で生産されている事がわかる。
明治時代の建築、音楽、絵画、衣装等あらゆる分野に於いて見られる和洋折衷のアンバランスさは陶芸の世界にも存在する。しかし、そこには近代化という当事者すら実体を知らない荒れ狂う波間で、座標も羅針盤も持たず、ただ無我夢中に刹那を生きていた人々の必死な姿を垣間見る事が出来る。即ち、造る事は生きる事そのものを指すのである。目を背けてはならないのは、これらの仕事はその時代紛れもなく私達日本人が造ったものであり、我が子であるという事実、即ち生きた証拠に他ならない。
この展示会の構成を自分なりに解釈すると、まず第一期の古薩摩に見られる日本閉鎖期の国焼の持つローカル文化の独自性の輪郭を見せている。
次に第二期の他産地の技術や原料の導入によって興った急速な展開を紹介している。新たな表現手法を身につけ、身近にある働く人間、動物や小さな昆虫(欧米では主題になりにくかった対象)の一瞬の表情を表す事により、第一期の奥底に秘められていた『何か』を噛み砕いて表現する事が出来た。そして、それこそが日本文化の真価であるところの欧米社会に存在しなかった東洋的無常観の顕在化ではなかったのだろうか。展示会では実にその事を示しておられる様に思えた。この思想に基づく第二期の表現を見せる事でその前身である第一期の本性をこの時点で悟らせている様だ。
更に、第二期が時間的に不十分なまま全く異なったDNAと折衷された事によって生れた第三期を見せながら、同時に、西欧のプレイヤーがその間貪欲に第二期の表現の細分化を行い、他の工芸の分野にまで吸収していった様子を展示している。タイトルにある『ジャポニズムとエキゾチズム』が西欧の物造りの中にそのDNAを繋いでいった事は、東の最果ての島国への好奇心とその旺盛な消化吸収力の現われであり、舌を巻かずにはいられない。
展示会では更に、薩摩がかように小さな産地でありながら茶陶、藩主献上の白焼、民陶、上下彩色、透かし彫り、捻り物、磁器生産、輸出陶と実に日本陶器の標本の様な多様な引き出しを持つ稀有な産地である事を暗に示し、『薩摩地方』という南端のピンポイントに見られるローカルな深さが、地政学上の歴史の動きの中で広く普遍化されていく運命的なプロセスを理解させてくれるものである。
これらを理解する為の作業は明治維新以来、相手の土俵で相手のルールで戦い続けてきた日本に暮らす者の一人として今一度、『ローカル』という言葉が持つ真意を探りとる契機となった。
そして日本の南端の『ローカル』という言葉の中に存在する『オリジナル』『アイデンティティ』が実は世界の言葉で雄弁に語り得る事、即ち『ローカル』が『インターナショナル』であることをパリの地より改めて知らしめて頂いたと言ってよい。
最後に伊藤祐一郎鹿児島県知事並びにクリスティーヌ清水氏に御礼を申し上げると共に、開催に至るまでの関係者の方々に改めて感謝を申し上げたい。