新年明けましておめでとうございます。
今年は丑の年、一歩一歩確かに進んでいきたいと願います。
年頭に当たり、表座敷に山岡鉄舟の書をかけた。「積雪楼屋増壮観 近春烏雀有和声」(雪楼屋に積もりて壮観を増し、近春の烏雀に和声有り)と詠む。まさに今の季節ふさわしい。
薩摩の古い家には西郷南州と山岡鉄舟の書が揃っている事が多いと聞いてはいたが、我屋にもそれが揃っている事を嬉しく思う。
山岡鉄舟、名前はよく耳にするが調べてみて驚いた。当時の人にしては身長188センチ、体重105キロという並外れた韋丈夫だ。しかも、剣を持たせると無刀流の開祖であり、禅で大悟した人でもあるという。生涯で100万枚の書を残したというが、我家のものは100万分の一であろうか。
彼は江戸における勝・西郷会談に先立ち、単身駿河に乗り込み、駐留する官軍の中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で叫びながら進んだという。しかも、初めて会う西郷がつまらぬ男ならその場で切り捨てようと考えていたらしい。西郷の周辺には、あの桐野利秋がいたのに・・・である。山岡は西郷に会うなりその人間的な大きさに打たれ、以後は勝と西郷の橋渡し役に徹することとなる。
山岡と会った西郷も「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と、賞賛したらしい。
当時のエピソードを聞いていると、今では想像もつかない大型の日本人がいた事を伺い知る事が出来る。登場人物達のどれ一人をとってもそう痛感する。
さて、薩摩焼の歴史を学ぶ中でも、幕末に超大型の存在がある。それが調所笑左衛門広郷である。
やはり人材というのは植物の種子の様に光と水で発芽するものだ。近代薩摩についても、島津斉興が調所笑左衛門という人物を藩政改革の中心に据えた事で全てが変わり始める。
NHK大河ドラマ『篤姫』の序盤に登場した調所笑左衛門広郷は薩摩藩が長年藩ぐるみでやっていた密貿易の責めをその一身に背負って自害した救国の功臣である。調所が薩摩藩の財政を見事に立て直し、更には途方もない蓄財を藩に残したことは後世の知ることである。その彼が手がけた一連の改革の中で、弘化二年「苗代川御取救い」がある。彼は薩摩藩の中で、藩にとって有益な技術者集団であり、現金収入を生み出す能力を持った苗代川陶工達の窮状を救う為、理否正しい境界策定を行い、更には肥前式の磁器生産を始めた。
このように陶業の振興を促したのである。
その思想は、次の藩主斉彬にも受け継がれていく。以下『斉彬言行録』より「焼物ハ必要ノモノナレドモ用ニ足スニハ何ゾ美麗を尽クスニ及バザルナリ。敷レドモ外国貿易追々開ケルニツイテハ、物産開発ヲ先ンセサレバ其詮ナシ。国産ノ陶器ハ夷人モ称美セリ。幸ヒ国産ノ白土ハ(指宿土・霧島土)陶器ニ宜シキ由ナレバ、製造ヲヨクスル時ハ佐賀ノ磁器同様ノ産物トナルベシ」とある。その時期、苗代川地区の中心人物として頭角を現したのが、若き朴 正官、十二代沈 壽官等である。このように斉興によって登場した調所の放つ光と熱により、多くの若い才能が花開いていったのである。それらはもし、光や熱や水を与えられなければ冷たい土の上で眠り続けていたかもしれない。そして沈 壽官は絵付けの名手、何 周運、彫刻の金 泰京、稔り物の姜 早丹を生み、又彼らも、車 熊示、森山探賢等を生んだ。
太陽の周りを回る衛星や、更にその衛星の周りを回る小惑星の様に、中心に光と熱を持つ存在がある事で形づくられる世界がある。巷間、島津斉彬とその父、斉興が不仲の如く言われるが斉興の指示の下に行った財政改革がなければ、斉彬の成功は決してあり得なかった。その事を思えば、英明な斉彬は斉興、調所の両人へは心中深く感謝の心を抱いていたに違いない。更に調所一人に責任を負わせ死に至らしめた自藩の現実と卑怯を、斉彬自らも又深く心に刻みそれ由、自らも命をかけて日本の近代化を進めていった様に思える。
島津斉興によって見出された調所という太陽が創った近代薩摩である。為すべき事を全て成し、薩摩の国と民を救い、それと知る者からは、決して言葉にはしない深い感謝と尊敬を受けつつも、恥ずかしめられ、取り潰される事を覚悟の上で全ての責任を一身に負うたのである。泉下の調所にしてみたら、却って心地よい言葉であったかもしれない。生きては救国の功臣であり、死しては護国の神というべき存在であろう。まさに、西郷の呟いた「金も名誉も命もいらぬ」漢であったのだ。
先日一月十三日、その調所の没160年祭が、美山の調所の招墓で行われた。神道青年会有志十一名の神官等が祭礼を司り、実に厳かな中で、子孫の方々と共に、父十四代と並んで参列した。その昔、美山には来迎院という天台宗の寺があり、そこには安置されていた招墓である。前述した「苗代川御取救い」に感謝した村人が着物のソデを賜わり、招墓を建立した。その来迎院が、廃仏棄釈で没された後、招墓は神社へ登る参道の傍らに移設された。我家はそれ以来、調所家の墓守として週に一度水を替え、花をたむけている。
一月十三日の祭礼の折、爽やかな青空から一転、霰が降り始めた。そして、ビューと南の強い風が吹き、そして一層澄み渡った青空へと戻っていった。幼い頃からこの社に通い続けている私には、それが古朝鮮の王 壇君の「分かった。確かに聞き届けた」との声である事を知っている。
薩摩の大地で朝鮮の陶工と薩摩の武士が手を取り合い、薩摩の大空で朝鮮の王と薩摩の太陽が笑いあっているかのように思えた。