去る三月十三日、山梨県の甲府にいた。
小説「白磁の人」(江宮隆之著)の映画制作発表の為である。あれは何年前の事だったろう。長野県松本市で韓国料理店「やんちゃ坊」を営む李春浩さんの訪問を受けた。彼は初対面の僕に熱く真剣に「白磁の人」の主人公である浅川巧について語り始めた。
浅川巧、明治二十四年(一八九一)山梨県北巨摩郡(現・北杜市高根町)に兄・伯教(のりたか)の弟として生を受けた。浅川巧は山梨県立農林学校を卒業後、キリスト教の洗礼を受け、大正三年(一九一四)兄を慕って、当時、日本の植民地であった朝鮮に渡ったのである。兄・伯教はその前年に朝鮮に渡り、教員として働きながら、その後精力的に朝鮮の古窯跡を調査し、後に「朝鮮白磁の神様」といわれる存在になる。父の顔を知らない弟・巧は兄の影響を強く受けて育ち、朝鮮の芸術に深く傾倒していくのである。巧は朝鮮総督府山林課に勤務した。当時の朝鮮の山々は、日本が持ち込んだ地籍法により、多くの土地が持ち主不在と認定され、没収の後日本政府に好意的な朝鮮人や日本からの移民に次々と下げ渡されてしまっていた。新しく地主となった人々は土地に執着がなく、すぐさま木を伐採し、売り払ってしまう。朝鮮半島は固い岩盤の地であり、そこに薄い表土が覆っているだけである。禿山となった朝鮮の山々はたちまち保水力を失い洪水を起こしてしまうのであった。これに心を痛めた巧は「朝鮮松の露天埋蔵発芽促進法」を考案し、朝鮮の山々の四割を復元したと言われている。その方法とは、山野に落ちている木の実を、林業試験場の畑に埋め、一年程経ってから、再度、元の山に埋め戻す方法である。これによって山の種が発芽することを突き止めたのである。この方法により、徐々に朝鮮の山々に緑を取り戻した。又、彼は、兄の影響で始めた朝鮮芸術の世界に於いても、昭和四年には、「朝鮮の膳」昭和六年には「朝鮮陶磁器名考」を出版している。現在でも高く評価されている名著である。
当時、日本は武断政治を敷いていたが、巧は日常、朝鮮人の民族衣装であるパジチョゴリを身につけ、流暢な朝鮮語を話した。そして朝鮮の言葉で彼等と交わり、貧しき者には金を与え、常に彼等と共にあった。彼は柳宗悦に宛てた手紙の中で「私ははじめ朝鮮に来た頃朝鮮に住むことに気が引けて、朝鮮人にすまない気がして何度か国に帰ることを計画しました。」と述べている。感受性豊な巧は被支配民としての苦渋を味わっている朝鮮民衆に対し、前に出る事が耐えられなかったのであろう。
巧は急性肺炎により昭和六年四月二日、若干四十歳でその短すぎる生涯を閉じた。彼の死は近隣の地区に知られる事となり、応じ切れない程の数の朝鮮の人々が集った。「哀号」と泣き崩れる数多くの朝鮮の人々の中から村長によって選ばれた十名が棺を担いだ。植民地下の朝鮮に於いて、日本を憎悪する者はいても、公然と日本人の亡骸を担ぐ事など考えられない事である。
今も巧の墓はソウルの東、忘憂里の丘にある。戦後、日本人の墓は取り除かれたが、巧の墓だけは例外的に残されたという。
私もこの墓を訪れた事がある。そこにはハングルで「朝鮮の山と民芸を愛し、朝国人の心の中に生きた日本人ここ韓国の土となる」を刻まれてあった。そして、現在でも韓国林業関係者並びに陶芸に携わる者達によって墓は守られている。
日本があの国を支配した三十六年、この事実が現在の日韓関係に深い溝を作ってしまった事は間違いない。そして、その三十六年の間には、実に様々な事が星の数のようにあっただろう。勿論、筆舌に尽くせない程の屈辱や哀しさもあったに違いない。否、ほとんどがそうであっただろう。しかし、同時に浅川巧やその他の僅かな人々の様に暗闇の中であっても清流の様な日本人もいた事は両国の記憶に留めて置くべきだ。
この度、この浅川巧を主人公とする映画が出来る。監督は神山征二氏、シネカノンの製作になる。難しいテーマであろう。我々はあまりにも近く、そしてあまりにも多くの事がありすぎた。しかしながら、浅川の死を受けて、当時の京城(ソウル)帝大教授、後の文武大臣の阿部能成氏はこう残している。
「官位にも学歴にも権勢にも、富貴にもよる事なくその人間の力だけで堂々と生き抜いた」と。
以前、司馬遼太郎先生から頂いた手紙の中にも、同様の件があった。司馬先生は「自らを一個の人類に仕立て上げよ」と述べられておられた。浅川巧に学ぶ点はまさに、その事である。
今日の日本人に最も必要な事を伝えてくれる映画になってくれる事を祈っている。