サイトマップ
トップページ
プロフィール
十五代作品
歴代作品
製作工程
歴史
ショップ
友の会
問合わせ
〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美山1715
TEL.099(274)2358(代)/099(274)0305(売場)
FAX.099(274)3219
慶長三年、時は旧暦十二月、東支那海が最も荒れる時期でもあります。 激戦で傷つき、風浪に弄ばれて、航行の自由すら奪われた三隻の船には、約八十数名の陶工達が詰め込まれていたのです。 その中で、運が良かったのか、一隻は何とか勇気を振って、薩摩半島の尖端を廻り、目的の鹿児島湾に到着しました。 古書には二十数名の朝鮮人の数が記されています。 しかし城下に着いたこの船に乗せられた陶工達は、その後の運には恵まれず、窯を開くこともなく、城下の武家や商家の奴婢等になって雑用を果たす程度の仕事で、陶工としての腕は振るえませんでした。 藩が苗代川に移し、陶工本来の仕事に就けるようになったのは、上陸後、七十年経ってからのことです。 しかし彼等は城下町の一隅の自分等の住んだ場所に、高麗町という名を残して行ったことは、面白い事で、今尚その地名は生きているのです。 次の一隻は、十数名が乗っていたと言われますが、この船は日置郡の市来海岸に着いています。白砂青松の吹上浜と呼ばれる景勝の地に漂着着船した船の中には、やがて薩摩官窯の開祖になる名工金海が乗り込んでいました。 茶道に精通し、利休居士の十哲の一人と称される島津義弘に愛されて、金海はその命令を受けて、上方(恐らく瀬戸地方)に日本陶芸の修業に 派遣され、茶道という最も新しい文化を日本の辺地、薩摩に持ち込んだ功労者の一人です。 義弘は金海を愛し、居を移す度に金海もこれに従い、帖佐釜、加治木窯、そして最後は薩摩官窯、堅野窯の開祖となりました。 この系統は君側にあって恩寵を受けつつ、名工を次々と産み出しながら薩摩陶芸史を飾って来ましたが、残念なことに幕末、生麦事件に端を発する薩英戦争で潰滅、再起出来ず消えて行くのです。
豊臣秀吉
(写真提供:名古屋市秀吉清正記念館)
薩摩焼の陶祖
陶工の渡来
焼物文化の始まり
第一陶器"黒もん"
第二陶器"白もん"1
第二陶器"白もん"2
薩摩の土瓶
上絵具の開発
タタキ技法
薩摩焼の盛衰
文化を伝えた人達
Copyright ©Chin,Jukan. All Rights Reserved.