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最後に残された一隻は、薩摩半島、吹上砂丘の果る所、串木野の島平港に入港しました。 乗員四十数名、むしろ漂着とも言えるような格好悪い惨めな上陸だったようです。 しかも何故か島津家よりの支援もなく、全く孤立無援、自力で他国での新しい生活に挑んで行くことを余儀なくさせられたと言っても過言ではないと思います。 何故、薩摩に陶業を根付かせるために連行したはずの陶工達に、十年近くも援護の手が伸べられないのは不思議だということで、その理由について諸説が華やかに組み立てられていますが、最近では、この串木野に着いた陶工達は島津義弘が直接集めて連行したのではなく、島津家の最高の重臣で伊集院忠棟という武将の手によって連れて来られたものらしいのです。 しかも、この伊集院忠棟は、着船の年の翌年、慶長四年二月、伏見の島津邸で、不忠のかどにより成敗された武将であり、島津家は伊集院氏成敗の後始末に非常に手こずっていますから、多分、名分を守るために串木野に上陸した陶工達の存在は充分知りながらも、手をつけなかったのではないか、という説が出ています。 しかし領主の暗黙の了解はあったでしょうが、直接的支援は受けなかった串木野に上陸した四十余名の陶工の動きは小気味がよい位、生き生きしたものがあります。 自力で生きる決意をした人間にはとても魅力を感ずるものです。 しかも薩摩の国には釉薬のかかった、高温で焼き上げた焼物はない土地です。まさに現代のハイテクの戦士のような魅力溢れる人間に見えたのでしょう。陶工達も大したものです。 生活の中に焼物文化がないことを見抜くと早速、まず近くの火山灰台地の下から鉄分の多い、いわゆる「黒土」を発見して仕事を始めるのです。
十七代藩主 島津義弘
(写真提供:尚古集成館)
薩摩焼の陶祖
陶工の渡来
焼物文化の始まり
第一陶器"黒もん"
第二陶器"白もん"1
第二陶器"白もん"2
薩摩の土瓶
上絵具の開発
タタキ技法
薩摩焼の盛衰
文化を伝えた人達
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