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まず、天保十一年(1840年)、苗代川に藩窯堅野窯より錦手絵付伝授のために、指導者を派遣してもらうことになりました。 朴正伯・正官父子の努力によるものです。 それまでは殆ど絵付けは行われず、若し苗代川で上質な白薩摩の生地が出来ると藩窯堅野窯に運ばせ、そちらで加彩したのです。 苗代川で行われたのは高麗李朝の時代を彩った象嵌の技術を活用して、白薩摩生地に彫りを入れ、そこに黒薩摩の陶土を塗り込む、いわゆる黒象嵌の技術などに過ぎなかったのです。 今残されている蘭花文の酒壺などは、その卓抜な業を知ることが出来ます。 韓国では本来、上絵付という文化はなく、現在でも一流と言われる人は殆ど上絵付を行わず、象嵌や三島手の印花文などが行われているのです。 苗代川の陶工達も昔の韓国文化に忠実であったのでしょうが、やがて吹き来る時代の風に上絵付という新しい技術に手を始め出すのです。 しかも天は朴正官父子をこの時代に生きせしめたことも不思議な程の恵みであると思います。 上絵付の技術が苗代川に移され、活発に動き出してから二十三年後の文久三年には、薩英戦争がおこり、藩窯堅野窯が英国海軍の砲撃に全壊する災難が起こったが、薩摩焼の重心を苗代川に移していた薩摩陶業は、益々隆盛を見るようになるのです。 既に苗代川は十分藩窯たる諸技術を備えていたのです。 その前、嘉永四年(1851年)、名君 島津斉彬が島津家の当主となり、薩摩藩は面目を一新します。 例えば、それまで中国産の上絵付の絵具を長崎経由で輸入していた薩摩藩は、複雑な流通経路を経て手に入る絵具の高値に困り果てていました。 江戸で育った名君 斉彬公は、薩摩焼の面白さやその市場での可能性をよく知っていました。 しかし原材料が高すぎるので市場競争に耐えられないと判断、自らドイツの化学の本を訳して、自力で西洋風の上絵具を開発することを決意、安政四年(1857年)、朴正官を苗代川より召し出し、直接ドイツ式絵具の作り方に当たられ、溶融点を各色ごとに揃えるなど様々な実用を目指した実験が行われ、それがそのまま薩摩焼の上絵付に生かされて行きます。 この機会に直接、斉彬から聞かされた、まだ見ぬ欧州の実状は苗代川に伝わり、苗代陶工に大変な衝撃を与えて行きます。 例えば、ヨーロッパの石造りの高層建築の絵は、陶工の驚きを引き出し、更にこの建築群に対応する陶工の在り方や、薩摩焼の構図は何故にあるべきか、苗代川陶工達に世界的目標が与えられ、彼等はやがてヨーロッパを射程距離に入れて行くのです。
英艦入港戦争図より第七段
(写真提供:尚古集成館)
薩摩焼の陶祖
陶工の渡来
焼物文化の始まり
第一陶器"黒もん"
第二陶器"白もん"1
第二陶器"白もん"2
薩摩の土瓶
上絵具の開発
タタキ技法
薩摩焼の盛衰
文化を伝えた人達
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