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斉彬が死に、薩英戦争に敗れるが、薩摩の政治的な発言は逆に重きを加え、遂に薩摩藩は、薩摩琉球國として徳川幕府に対抗し、独立国の格式でパリ万國に押し出すことになりました。 そして、出品品目には苗代川で造られた薩摩焼が加わっていたのです。 異邦人を先祖に持ち、異国の姓名を名乗っている陶工が、日本と薩摩の為に世界の舞台に立つことになったのです。 まさに歴史の面白さと申しましょう。 更に明治六年のオーストリアのウィーンの万国博覧会で薩摩焼は世界一の大評判を受けるようになります。 そしてその時の主役は苗代川の旧藩窯の主取りを勤めていた十二代沈壽官でした。 彼は亡き斉彬に敬慕の情を懐き続けていました。 殊に、西欧の巨大な建築物の絵を見せた斉彬公の「こんな大きな、高い建物に負けないような陶器を造れるようになれ」という謎は、何時も十二代沈壽官に囁きかけていたようです。 そして、やがて一つの技法を選び出し、その技術を駆使して世界の舞台に駆け上がって行くのです。 その技術とは、タタキの技法だったのです。 通常ではロクロの上に陶土の塊を置き、水挽きという技術で引き伸ばして花瓶を造るか、或いは大きな花瓶は、数ヶに分けて、造った部分を繋いで作り上げる手法を使っていました。 しかしこれには限界があります。 これに対して、タタキの技法は、まずロクロの上に底土を置き、その縁に直径五センチ程の長く伸ばした土の紐を重ねて練り付けていく。 約五十センチ程の高さになると、中に炭火を吊るし、熱で下部を乾かしながら更に積み上げる。 土の重さに潰されない様にしながら、又積み上げの作業を続けていく。 そして木製の道具で継ぎ目を内外からたたいて、しっかりと繋ぎ、再び土を重ねながら高く大きくしていく。 理論的にはこの方法を使えば雲まで届く大花瓶も出来るのです。 しかも、この方法は韓国はもちろん中国や日本にも既に存在している馴染みの技法なのです。 この技法には不思議なタブーがまとわりついていました。 日用生活品、例えば水甕とか大鉢とか味噌壺などは昔からこの技法をふるに使って、製作していました。 今でも韓国や中国にはそのまま残っています。 しかしこの技法を使って、美術品を作ることを発想した前例はなく、また、作品もありません。 私達が知らない大昔、アジアの一隅に生まれたこのタブーは、何千年もアジアの陶工の手に縛りをかけていたのです。 しかし考え抜いた十二代沈壽官は、このタブーに挑戦し、この技法を使って一米を超える大花瓶を作ろうと思い立ったのです。 しかし、現実は甘くなく、二米を超す大花瓶は、クレーンのない時代では、まず動かすことも困難、まして釉薬をどうしてかけるか、窯入れの時は、気が遠くなるような難問を一つ一つ解決し、やがて旧主斉彬公が夢見た大花瓶が苗代川で完成、期待を背負って万博に出品されたのです。
白薩摩竜飾大花瓶
(十二代 沈壽官)
高122cm×幅78cm
薩摩焼の陶祖
陶工の渡来
焼物文化の始まり
第一陶器"黒もん"
第二陶器"白もん"1
第二陶器"白もん"2
薩摩の土瓶
上絵具の開発
タタキ技法
薩摩焼の盛衰
文化を伝えた人達
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