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〒899-2431 鹿児島県日置市東市来町美山1715
TEL.099(274)2358(代)/099(274)0305(売場)
FAX.099(274)3219
渡来最初に築かれた窯跡を、昭和十六年、文部省の小山富士夫氏等が発掘研究した資料があります。 それによれば、出土した製品の破片の七十パーセントは水甕の破片だったようです。 小さな桶で汲んだ生活用の水がなくなる度に、水場に汲みに走っている主婦の生活には、丈夫で大きな水甕の出現はまさに台所革命に等しい大きな事件だったのです。 材料を細かく潰せる擂鉢も、きっと驚きを倍増させる役割を果たしたことでしょう。 現在、黒もんと呼ばれ、この時代の寵児とも言える黒薩摩は薩摩焼の長男です。 貨幣経済が殆ど発達していない時代の、しかも一地方の出来事です。 すべてが物々交換の経済行為の時代、渡来の陶工達は異常な人気に戸惑いながら、しかし久しぶりの自由と満腹の喜びを噛みしめていたことでしょう。 今でもその窯跡に行くと運が良ければ当時の破片を拾うことが出来ます。 驚くほど薄く、しかししっかりと造り上げている陶片を見る時、自信に満ちた陶工の笑顔と他国者ながら、この道では第一人者という工人の誇りを感ぜざるにはおれません。 金海が君側にあって、最尖端の茶陶の導入という最高の文化的使命に奔命していた時、第三の船、串木野上陸の陶工達は、朝鮮時代の大物づくりの特技を活かしながら、日本の庶民の中に入って行く。 たとえ、その日本人との関係が快晴清朗の状態ではなかったにしろ、晴れ時々曇り、という現代の日韓関係そのままに、ある種の緊張感を伴う友好の日々が約五年間程続きます。 やがて陶工達は串木野の地より現在の東市来町美山へと移住します。 現在の美山(旧苗代川)に辿り着いた時は、疲労の極に達し、「一見乞食の如し」と古書はその状況を記しています。 苦労の極とは言え、しかし、苗代川の風景は疲れた目に不思議な懐かしさを感じさせたらしい。 「この地、故山に似たり」海が望めるこの美山の地は、海の彼方の故郷に一直線という安心を生み、もうここでよいと思い定め、一同は農夫の下働きをすることにして、この地に住み着いて行くのです。 受難の第三船の乗組陶工達は、望郷の想いとロクロと窯から離れる淋しさを味わいながらも結果は再びロクロを廻し、窯の火を揚げるのも、この地であるとは、その時は想像もしなかったことでしょう。
堂平窯跡出土 甕
高25.5cm×幅26.2cm
(写真提供:鹿児島県立埋蔵文化センター)
薩摩焼の陶祖
陶工の渡来
焼物文化の始まり
第一陶器"黒もん"
第二陶器"白もん"1
第二陶器"白もん"2
薩摩の土瓶
上絵具の開発
タタキ技法
薩摩焼の盛衰
文化を伝えた人達
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